・憲法は国法の最高法規であり、全ての国法は憲法に無条件に準拠する。
・憲法では第13条で個人の尊重、14条で法のもとの平等、24条で家族生活における両性の平等を定めている。
・ゆえに、民法、戸籍法も憲法の条文に無条件に合致せねばならない。
・民法は、夫婦別氏論に係る婚姻・離婚・親子などの家族関係における身分上の権利義務を具体的に規定した実体法である。
・戸籍法は、民法の委任に基づき、前述の権利義務の公証を具体化するための手続法であり、民法の下位法の位置付けとなる。
・民法はその第739条1項で「戸籍による婚姻の届出」を規定することによって「法律婚主義」を明確に採用している。そして第750条で「夫婦同氏原則」を規定している。
・第767条2項では「離婚後の婚氏続称」を認めている。
起点である婚姻は氏の選択は二者択一であるのに対し、終点である離婚の際には選択肢が広いという矛盾を生じさせている。
1.単なる個人の呼称 | 憲法の理念 |
2.家名 | 日本的家制度の投影 |
3.家庭の名・家族共同体の名 | 土俗的拘束の投影 |
4.血縁集団・血統の名称 | 儒教的家制度の投影 |
5.同籍者集団・戸籍編製の基準 | 戸籍実務上の考え |
夫婦別姓の不利益性
婚姻による改氏の不利益
1.自分が自分でなくなったような自己喪失感・違和感が生じる。
2.女性側がほとんど改姓している現状では、夫と妻のあいだの不平等感がつきまとう。
3.その人としての社会的実績・信用の断絶。
4.改姓にともなう手続きの煩雑さ。
(主に、運転免許・旅券・印鑑証明などの公文書、また、日常生活・職業活動にかかわる身分証明や契約上の書類など諸々の私文書の氏名の変更)。
5.結婚・離婚・再婚などのプライバシーの公表を否応なく強制される。
6.夫の「家」に吸収される感じがする。
反論への反論
別姓論議は時期早々 → 別姓への精神的な準備が阻まれている。
国民的な意識に反する → 旧態的な観念から日本人を開放することが肝要である。
夫婦の一体感を破壊する → 一体感とは主観的なものであり、一般論への転化は難しい。また、あくまで「選択的」別姓であるので、一体感を主観的に損なうと判断する場合は同姓にする自由がある。
子どもの姓はどう決定するのか → 夫婦別姓の最大の問題点である。原則として夫婦間の協議に委ね、不調の場合は家裁が介入し、指導を下す。
現状、意見、疑問
・最近のマンションの表札には、夫婦で違う性が出ているところが1%程(概算)ある。
・近代になって離婚率が上がったのは、農村部の人口が工業化に伴って都市部に移動して核家族が多くなったから。
・姓は天皇制のもとに、氏は武家社会の名字や公家の屋号からはじまった。
・過去13回廃案になっている。
・夫が同姓を希望し、妻が別姓を希望した場合、どちらの望みが実現しても、どちらか一方に圧力が加わる。
・男女差別的な慣習は、男女雇用機会均等法などと同じように、法によって是正されていかねばならない。
・「家」というものがなくなったら、 だれが親の面倒見るの? だれが墓守りしてくの? → 社会が面倒を見る。墓など必要ない。
・戸籍制度は世界ではほかに韓国と台湾が採用している(日本の占領政策の結果)
珍しい制度で、たいていの国は日本でいう住民票が戸籍の役割もしている。
住民票と戸籍の違いは、住民票が現住所を把握することが中心なのに対し、戸籍はその人の家族関係を把握することが主な目的であること。旧来は身分も把握していたが、敗戦による民法改正により現在の状況となった。
戸籍は、男性が一家の長として家の主な生計をたて、それを中心に家族が成り立つということを前提としている。子供は結婚することで新しい戸籍を
(つまり家族を)作ることができる。
従って一家にはひとつの姓しか許されないし、一家の主なる生計を担うものとして戸籍筆頭者(旧来は戸主)が存在する。
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神社連盟の反対声明への疑問
http://www.jinja.or.jp/jikyoku/bessei/bessei0.html
「ごくわずかの強硬な別姓推進論者に与して、民法改正案の国会提出を企てているのは、全く民主的とはいえない」
とあるが、我が国は民主主義の高次の次元、つまり福祉国家を標榜して久しく、福祉国家においては多数派の論理が絶対視されるとは限らない。身障者は賛成者の多少に関わらず保護されなければならない。このような状況の中で、少数派である改姓論者の小なりをもってしてその意見を否とするのは暴論ではあるまいか。
「その思想は、個人をもって全てに優先するところの社会の基礎単位と考える、過度の個人主義に立脚した危険な考えに基づいています。」
旧態的な家制度を解体せんとする思想が別姓論の中核であることは間違いない。しかしながら、これを「過度の」個人主義と捉えるのは一般論から外れているのではなかろうか。つまり、背反する神道の思想をもって「適切な」個人主義を捉えることは困難なのである。別姓論は個人を慣習から解放するものであるけれども個人を社会に優越させるものとはかかれていない。結局は、双方の社会認識の誤差からくる誤認なのである。
「夫婦の同氏制と別氏制が同時に併存することになるゆえに、そこから新たな不便や不都合、不利益が広く社会的に発生してきて、かえって実際に今一部の女性が問
題にしている事柄以上の、複雑で厄介なコストのかかる社会状況の出現が予想されます。」
とあるが、これは具体的にどのような状況をさすのだろうか。
「共同体としての「家族の維持」より自分一人の「個人の利便」が優先する利己主義の風潮が社会に広まり、「家族の名称」(ファミリーネーム)としての氏がなくなることに
より、縦の生命のつながりを大切にするわが国の精神伝統は断絶し、これまでの「墓制」や祖先崇拝の「家庭祭祀」の風習は廃れ、老年者の介護や親族間の扶養義務の
観念は薄れ、民族の伝統文化は急速に解消されて変質をきたすことが憂慮されます。」
ファミリー・ネームを夫婦双方の名称以外に命名するという妥協案があるが、これについての見解はいかがなものであろうか。
また、我が国の精神伝統の断絶により近代主義の台頭が図られるということは、個人の幸福という観点から、はたして忌むべき現象なのであろうか。介護や扶養義務の観念は「我が国の精神伝統」の専売特許ではない。これらの観念は人間社会の根底的な道徳であり、伝統や慣習はこれらの観念を立脚させる上での必要条件ではないだろう。
とかく改姓派が「ごく少数」であるということを強調し、否定論の根拠の一部に組み込んでいるが、大多数が賛成に回ったとしたらどう説明するのか。