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2000/3/21(火)ワークショップの内容の続き

以下ではカウンセリングや面接時にとられる対応について、心理的・精神医学的「治療」を含めてへんな言葉だが「介入」と表現することにする。また心理学的な介入の場合にはこちらも一般的な言い方ではないのだが、依頼人と被依頼人と書くことにする。(臨床医学的な比喩をつかうとどうも「お医者さんごっこ」のようになるので、心理学的な介入には不適切ではないかと感じているからである)

最後の藤田さんの話し(日本で起きた事故・倫理上の問題)では時間の関係で介入時に生じた事例(訴訟になった例も含めて)をあげられた。内容は介入時の問題・事故、アカデミックハラスメントの例が事例的に説明された。

介入時に生じた問題(実際の訴訟になった例)

アカデミックハラスメント

そのほか、ワークショップ・諸研究費の不正請求(今日のヤフーニュースの「教育関連」欄には京大教授の出張旅費の不正請求の記事があった)や研究や調査後の調査対象者への約束(報告やお礼など)をまもらず、調査を継続できなくなってしまった例が挙げられた。

訴訟になった例では、被依頼者の側(介入する側)がいつも正しいものではなく明らかに違法ないしは過失行為を行ってしまった事例があげられたが、「えん罪」を受ける可能性もある。仮に潔白を証明することができ、訴訟に勝つことができたとしても社会的な名誉は回復できないかもしれないし、そのとき使われた介入方法も社会的な信用を失ってしまうかもしれない、ということを述べられた。

まとめとして、問題の生ずる可能性は、以下のような場合が考えられる。これらによりもし訴えられた場合には、自己の潔白や正当性を証明できるものを残しておくことが必要で、こういった事態をまねく可能性を少なくするように(環境的にも、自律的にも)心がけることが必要だ、という内容であった。

不作為の問題については、最近では新潟の事件での警察の対応がその実例になるだろう。先の本田さんの話にもできたが、心理的介入では「もうすこし様子をみましょう」といった判断は(もちろん実状・状況によるが)訴えられれば(そのような判断をしなけらばならない職務権限が与えられている場合には)責任を問われる可能性もある。

ただ、ライセンスとの関係について日本ではかならずしも職務上の行為の規定がきちんとなされていないので、「道義的」責任ということになるのかもしれない。これらにはきちんと法的手続きをとっていかなければ、事態を動かすことはできないのではないかと思った。心理学関係のお二人は、ともかく日本の現状は依頼人・被依頼人ともに不利益を被むりかねない状況であることを訴えられたのだと思う。一方精神医学的治療については権限が大きい。しかし、精神科といえども「2時間待ち、3分診療」の実態があるとも発言された。心理学的介入との関係はまだ十分に検討されていないという印象を持った。

以上の話しを聞いて、資格にはこれらの問題への具体的な対応と法的・行政的整備が必要だということをあらためて思った。心理的介入が社会的に広く受け入れられるためには、公的「資格」が重要なものとなる。依頼人の諸権利を守るための法的・行政的制度を実現することがまず重要なことであるが、同時にそのことが、依頼を受けた人(心理学的な介入を実施する側の人)の「身を守る」ためにも必要であることが分かった。

アカデミックハラスメントは私にとっても身近な話題である。教員・学生間の関係というのも場合によっては程度の違いはあってもBoundary Violation を引き起こす危険もあるし、それが「教育」であると双方思いこんでしまうこともあるだろう。「よかれ」と思いしていることの中にもこのような面があることも認識しておくべきだろう。また、大学教育は本来自主的な勉学の機会や環境を与えることにあると思うのだが、大学においても教育ネグレクトの問題を考えてみるべきなのかもしれない。

(講演メモは後で修正するかもしれません。昨日分も一部追加しています。)


2000/3/20(月)卒業式

今日は午後から卒業式。晴天だが強風。毎年卒業式はいつも寒い印象だ。式のあとゼミの3年生が花束など贈っている。記念写真を撮る。今年はデジタルカメラで。学生はだいたい「写るんです」を使っているようだ(APS版)。卒業はあたらしい出発だ。毎年のことなのだが、巣立っていける人はうらやましいと思う。私はここで見送ることしかできない。

今年は国際学部の一回生の卒業生を送ることになった。また昨年まで「謝恩会」はKホテルで行っていて、学生の負担が大変だなあと感じていたので、今年度完成した学生ホールでケイタリングサービスを利用するようになったのは良いことだと思う。

このページの話題でときどき話す機会のあった国際学部のF教授も出席されていて、ちょっと話したのだが「定年」が近いと言われ、あらためてお年をうかがって驚いた。10才以上は若い方だと思いこんでいた。

会場では専攻の学生何人かと写真をとったり(ピースサイン(むかしはVサイン)などしてしまうのはいったいなんなんだろう)、卒業後の進路などの話しをした。プレイステーション2のくじ引きで盛りあがっていたが、ちょっと早めに会場を後にした。

昨日の公開講座のメモを忘れないうちに。

講師の方と話しのタイトルは、国際基督教大学の本田さん(日米におけるスクールカウンセラーの倫理をめぐって)、東京サイコセラピーセンター所長の中久喜さん(米国における心理臨床家の倫理をめぐって)、兵庫教育大学の藤田さん(日本で起きた事故・倫理上の問題)というものだった。

本田さんは米国での中学・高校のスクールカウンセラー(ガイダンスカウンセラー)の経験をもとに話された。この話しを聞いて公開講座の「○○と倫理」というタイトルから私などは不謹慎だが退屈な話しになるかなあと思っていたのだが、「倫理」というのは、私が思いこんでいたような「道徳的」なものばかりでなく、「行動の規範」であり、破れば罰則のある厳しいものだということを知った。

道徳的に守らなければならないことがらはどの職業にもあって、これを自律的に守ることは個人の重要な資質であることに変わりはないが、「倫理」というとこのような道徳的な面のみを思い浮かべていたのである。

米国のスクールカウンセラーはかなり細かく業務分担に応じてライセンス(州や自治体が発行する)が定められていて、その範囲を超えてはいけないし、規定された業務を怠ればライセンスを失うこともある。

米国でのASCA(American School Counseling Association)の倫理要項の基本は、生徒と学校間のインフォームドコンセントに基づく「契約」によって成立しているようだ。生徒・保護者には学校内での行為についての契約が守られなかった場合にはどのような処置がとられるかが、かなり具体的に細かく説明され、同意のもとでそれが「法的」に実行されていく。だから話しをきいている限りでは、そこまでやるか、という感じがした。(日本では「学則」をこのように実行する意志はみられない。これは生徒・保護者・学校間に「契約」がないからだろう。)

例として「不登校」と「非行」の問題をあげられた。「不登校」は日本でも増えているようだが、米国では一週間の不登校が放置されると、教師は「教育ネグレクト(教育を受ける権利を剥奪した)」の責任を問われ、もし教師の不作為による場合にはライセンスの剥奪もあり得るという。保護者も責任を問われる。

このような話しを聞いていると、我が国でも憲法や教育に関する法律を実質的に守り実行することでかなり多くの問題が解決できるように思った。問題はこれらを実行にうつす手続きが整備されていないことにあると思った。(米国ではライセンス取得の条件として、関係法律についてのかなりの知識が要求されているとのことだ)

今回のワークショップでは倫理規定の面が強調されたので、なんだか行政的・事務的な印象もあったのだが、もちろん個々のケースについて具体的な行動プログラムがあるのだと思う。単に責任逃れのために登校させるということではなく、一定の法的手続きがとられたあとは、別の教育機会を提案することが教師のつとめにになる。

心理学の資格については「仕事の分担・他の領域との関係」が明らかにされていなければ、「認定資格」というのは意味をなさない、と感じていたが、米国ではまさに資格にたいして公的な実行機関(行政)が定められている。現在日本で「認定」されている、たとえば、心理臨床士はこの面が欠けている。

中久喜さんは精神医学者の立場から米国心理学会(APA)の倫理要項を一般的に説明された。いくつか印象に残る話しがあった。質疑の時に、ある方が「日本のある学会では、学会誌を読む制限がつけられているものがあって、一定の教育などを受けた者でないと閲覧できないようなものがあるのですが、米国では?」ということを聞かれた。中久喜さんはちょっとけげんそうに「いったん公表されたものは最終的にはプレゼンターがその責任(同意・プライバシーの問題など)を負い、(訴えられたりしないような方法で書くべきなのであって)閲覧が制限されるということはありえない」と答えられた。

 中久喜さんは現在のアメリカ精神医療での倫理にかかわる問題として「治療関係におけるBoundary Violation」の問題と、守秘義務と社会に対する責任のジレンマが存在することを話された。

精神医療においてはBoundary Violationがおこりやすいと言われ、いくつかの例が説明された。また、「だれかに危害を加える」というような内容については当局に「通報」しなければならない義務が(社会に対する責任として)課せられている。まんいちこの通報をおこった場合、実際に事件がおこってしまったときには、この責任を問われることもある。これは依頼人との信頼関係に関わるので「査定」に関わる人たちにジレンマとなっている。

(本田さんも教育事例で類似の例を話されていた。)

次の藤田さんの話しとも関連する話題であるが、「患者さんに訴えられた経験」を話された。米国では精神科の医師免許についての「クレーム」を受け付ける機関があって、そこに中久喜さんが担当された患者さんが、あるabuseを中久喜医師から受けたという訴えをした。その際、自己の潔白のために、その訴えが不合理であることを証明しなければならない。その際重要なのは医療活動についてのきちんとした各種の文書を残しておくことが必要であるということを述べられた。

藤田さんの話は時間がおして短くなってしまったのだが、日本での臨床・教育場面での事例(訴訟も含めて)が述べられ、臨床場面のみでなく通常の大学教育の場面でもいろいろな問題、いわゆるアカデミックハラスメントが生じていることを知った。これについてはあらためて。

プレゼンテーションそのものについての印象であるが、教員的な感想を述べるとプレゼンテーションとしてはよく構成されているとは言えないと思った。特に先のお二人は米国での経験も長い様子であったのだが、あまりよく構成されていないようにも感じられた。よく知らない分野の話しのためにわかりにくかったということかもしれないが。(内容そのものは上に書いたようにいろいろベンキョウになりました)


2000/3/19(日)東京国際フォーラム

午後から行動分析学会のワークショップ(公開講座)へ。大学の同級だったNさんの「動員」だったのだが、会場が東京国際フォーラムだということで、この建物を一度見たかったという不純な動機も。すこし早めにいって館内を歩いてみた。まず中庭があってこれはコンクリート(石だたみ?)ではあるが、都心のなかの現代風のパティオという感じで多くの人が休んでいた。(建物でかこまれた空間では中国の様式も非常に落ち着く。)

ガラスホールというビルが特徴ある建物で、名前のとうり中庭に面したビルの壁が10階くらいまで吹き抜けでのガラスの壁になっている。なかから見上げると、巨大な魚の骨のようでもあるし、船を逆さまにしたようなスケルトン構造になっている。5階から6階くらいにこの吹き抜けの上を通る渡り廊下があるのだが、これは高所恐怖症の人にはちょっと怖いものだろう。この構造はたしかに斬新なものではあるのだが、建物というのはやはり中にはいると「安心感」があることが必要ではないかと思うので、建築家の趣味の世界かなあとも感じた。

おじさん的発想としては、公共の建物はいざというときに避難所になったりするべきものではないかと思うので、この点の配慮が欠けているのではないかと思う。安全対策は十分なのだろうが、地震などでガラスが壊れるといったいどうゆうことになるのかとちょっと心配な感じがする。また、ビルの上の階にいくのに、いったんエスカレーターで吹き抜け空間の一番下におりて、それからエレベーターで上にいくというのも趣向ではあるのだが、ちょっと違和感があった。他の建物は見られなかったのでいつかまた見に行ってみたい。

肝心のワークショップのテーマは「心理臨床家に求められる倫理をめぐって」というもので、私には直接的には関わらないものであったのだが、学校でのカウンセリングの問題やアカデミックハラスメントの話題があって、興味深く聞くことができたし、心理学の「資格」問題に対しては認識を新たにすることができた。具体的な内容についてはまたあらためて。


2000/3/18(土)「こころ」

文化・「単眼・複眼」欄は(朝日新聞 3/16夕刊)は「デジタル博物館」の可能性という記事と、「こころのケア」についてのもう一つの見方の記事があった。くわしいいきさつは知らないのだがだいぶ前に臨床心理学関係の学会が分裂し、一方は「資格」推進へ向かったのであるが、記事では資格推進に反対したグループが取り上げられていた。たしかに、なんとかしなけらばならない現実があることは確かなのだが、このグループが言うように「こころの問題」に内向していく傾向は問題そのものの矮小化に通ずるものがあるのではないかと思う。

来週の「あすか」の空想ストーリー。京都百貨店が売り出した「新おかめまんじゅう」は不評と返品があいつぎ、こまった担当者は「のれん会」へ助けを求める。ここで新月はんがおいでやしゃってややこしいことに。一発あてた玉おじちゃんは商標を札束で買い戻そうとする。一心堂ののれんがかたむいたことに責任の一端を感じている「関西落語お師匠」さんがこりずにまたまたおかめまんじゅう対決でどちらが製造するかを決定することにしようと提案。(と思ったのだがこれでは「お菓子のこころがわかってへん」ストーリーやおまへんか。あんたはんしょーもない対決料理番組の見過ぎでっせ、ほんまに。)商標を独占した京都百貨店は「和菓子のこころ」をわかってへんと非難され、ライセンスを公開することに。「おかめまんじゅう」は和菓子の古典になって多くの店で作られるようになって、京都百貨店のおかめまんじゅうコーナーは盛況。安くてまあまあのものがやはり売れるが、一心堂のおかめまんじゅうは健闘し一番人気。しかし、材料・製法の関係で需要に応じきれない。新生・扇屋一心堂は(新しい店で)あたらしい和菓子を求めて再出発となる。??

今日は夕方から非常勤講師慰労会へ。


2000/3/17(金)「不公平」

ヤフーのニュースで北海道新聞のコラム「試験と公正」(3月16日)が掲載されていた。歯科医師国家試験で問題がもれたらしいという「事件」についてのものである。

記事によると、問題が発覚したのは、受験生から厚生省に電話があったそうなのだが、「現役の大学生には二十五問が漏れているのに、自分たちには十一問しか知らされていない。不公平だ」だという「告発」電話だったということだ。コラム氏は受験生氏は「不公平」は理解できても「不公正」はよく理解できていないようだとの感想で、公正さに欠ける医師の誕生を危惧しておられる。

この記事(コラム)から推測すると、もしかして試験問題「ろうえい」は日常化しているのではないか、と思った。


2000/3/16(木)

午後から3年生のJ君の進路について相談。わたしが3年のときよりもはるかにまじめに考えている。

次年度の講義要項の手直し。くわしい内容はWebサイトに載せるので締め切りはないようなものだが、印刷して学生に配布される講義要項には締め切りがある。学部のほうはすでに提出済み。大学院の方は20日締め切り。

この書類を書こうとしたのだが、PowerMac7600/200がやたら落ちて、ぜんぜん駄目だ。新しいソフトをインストールした後なのと、システムがちょっと古いまま、あまりメンテナンスせずに来たことに一因があるのだろうか。


2000/3/14(火)アップデート 

Mac用のATOK13が届いた(修正版)。さっそくインストールして使っているがATOK12とそれほど変わらない感じだ。(Windows版と同等になったということで辞書機能とかいろいろ追加されている。反応も悪くない。)今日はもうひとつソフトをアップデートした。メールソフトはEudora Pro3.1を使っていたのだが、新しい4.2からMacとWinのクロスライセンス版ということでアップデートすることにした。新しい版では当然前のメールボックスを引き継ぐものと思っていたのだが、古い3.1のメールボックスを4.2 でつかうときの注意がわかりにくく、いろいろアラートが出る。おまけにファイルが壊れているなどというのまで出た。どれを選択していいのか分からずとまどってしまった。(アラートの選択肢がなんとなくWindows調で、ある選択をした場合にどのような結果になるのかが分からない)

またインストール前にバックアップをとったのだが、どじなことに、ファイルを勘違いして、保存すべきメールボックスのファイルを捨ててしまった(Eudora folderというのが4.2用、Eudoraフォルダーという表記のが3.1用)。少し前にとったバックアップで復旧したが、最近のメールを失ってしまった。サーバーに残す設定にしてあるのでそちらから取り出せると思うが。推薦書関係のメールは大丈夫だったので、I君ご心配なく。

もう一つJedit3の登録。いまだにインターネットでカード決済するのに躊躇していて、ファクスで。改行コードの変換のできるエディターにはPascal Writeがあるのだが、Jeditのメニューの表記はわかりやすくて良いと思う。


2000/3/13(月)「空想講義」

先日あたらしい商品開発モデルとして、企業・消費者の共同開発の企画は面白いなあと思っていたら、すでにこんなサイトがあることをご教示いただいた。わたしなどとはそれこそ住む世界の異なる人から。「空想家電」http://www.coi.co.jp/data/index_hobby.html

商品に限らず、いろいろ空想できる。「空想講義(あったらいいね、こんな講義)」

一方「現実講義(なければいいね、こんな講義)」。やばくなりそうだ。しかし、このようなやりかたの講義がいくつか実現すれば面白いだろうなあと思う。

今日は今年度最後の会議が二つ。今年度も「公式」行事としては来週の卒業式を残すだけとなった。今年は4年前に発足したK学部では最初の卒業生を送る年になった。新年度はあらたにC学部が2学科で発足する。


2000/3/12(日)編入試

昨日はB方式入試と編入学試験。いつもの列車は休日編成で短いのと、梅見の季節で観光客で混んでいた。私は面接を担当したが、各地からいろいろな思いで受験してきている。最近ではいったん社会で働いた後にという人もある。

編入学試験の面接を担当する機会が時々ある。編入希望者には4年生の大学を卒業見込みの人や、あるいは在学中の人、短期大学の卒業見込みの人、社会人など数は多くはないものの多様である。

編入学試験で思うことは、大卒者や社会人のばあい、基礎から学びたいという気持ちは貴重なものではあるのだが、学部を重ねるよりも、大学院で特定領域を学ぶことの方が良いのではないかということである。特に本学のような広領域の大学院では出身学部はあまり問題ではないのだから。学部レベルの基礎的な科目については、学部の必要な科目を選択して受講すればよいのではないかと思う。(今後は大学院のカリキュラムにもこのような配慮が必要とされるだろう)

短期大学からの編入は「専門」課程への進級のようなものだから問題は少ないように思う。

今日の新聞には法学部の「ロー・スクール」化についての記事があった。大学院の高等専門学校化を進める場合には、出身学部による制限をなくすことが必要ではないかと思う。特に全国で20校くらいとか制限されるような場合には。

近所のデパートで「葛ぽんち」を発見(商品名は「あすか」となっていた)。ドラマで「葛ぽんち(葛とろりん?)」の製造場面の撮影に使われたという関西の製菓工場で作られたものだと説明していた。商標にはNHKエンタープライズの名前もでていたので、メディアミックスの新商売でも始めたのか? でもあのお菓子は扇屋一心堂ののれんがかたむくきっかけとなったのだからメーカーにとってはイメージの良くない商品のような気もするのだが。

ドラマでは一心堂のいのちである「おかめまんじゅう」の商標が金策のためにデパートに売られてしまったというストーリーになっているということだが、この調子でいくと、近々これがどこかのデパートで実際に発売されるのではないか。


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