大学往来 

■大学往来インデックス  ■index_hobby


99/05/06(日)web日記・「動機」

WorkPad/J関係のホームページ(パーム航空 http://palm.org/ )を見ていたら、こんなページが紹介されていた。ホームページなどの書き換え被害やインターネットトラブルの相談窓口。警視庁、ハイテク犯罪対策センター。http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/osirase/haiteku/haiteku.htm

昨日の朝日新聞朝刊・学芸欄には「探求:記者の目、読む日記、書く日記:「混乱」に見いだす面白さ」というコラム(山脇文子氏)。(著名人から一般人まで)日記の出版が最近おどろくほど多いのだそうだ。Web日記も触れられている。「普通の人が(永井)荷風のように、他人に読ませる日記を書く。文学についてカラオケ化」が言われているが、日記の分野でもまた「カラオケ」化は進んでいる。」とのことだ。「カラオケ」化の意味はよく分からないが、クロートの特権や領域をシロートが手軽に奪っているというような意味だろうか。記事のなかで紹介されている「面白すぎる日記たち:逆説的日本語読本」(鴨下信一氏、文春新書、近刊)というのはタイトルからしておもしろそうだ。しかし本当に社会現象としてとらえているのであれば出版数、割合などのデータも少しはあると良いと思う。

Web日記についてのいろいろな考えがある。どうも「日記」という言葉がやはり本来隠すべきものという意味合いが強いので、それが気になるのだと思う。また、それの反対に「興味本位」に他人を覗いたり、「よけいなこと」に時間を費やしているのでは、というある種の後ろめたさを感じるということもある。その一方で、Webがなければ出会うことの無かった人を知ったり、知り合いになることができる、むしろ出会いの場として積極的にとらえておられる方も多いような気がする。匿名系と実名系、サーバーの種類によって意味合いはちがうのだろうが。

また、作品としての日記がある。Web日記を読んだり、書いたりするようになって、日記文学が気になるようになった。古典もまた読みたいなーと思うようになった(仮に高校のころ古文の授業でWeb日記のことを紹介してくれたらきっと日記の古典文学などもっとマジメにベンキョウしただろうなあ)。最近では「平成の日記文学と賞賛される」田中康夫氏の「東京ぺ○ぐ○日記」などは衝撃的だ。

瓶のなかに手紙をいれて海に流す手紙(message in a bottle)と同じような偶然見知らぬ人のもとへ届くメールがインターネットメールにもあるのだそうだ(ただし「ボトムメール」というソフトをインストールしている人同士のみ、MacPeopleを立ち読み)。もしこのようなソフトを使わないで手紙を流すことができて、手紙が「流れ着いてきたら」素敵だと思うが、ひょっとして「スパムメール」と勘違いしてすててしまうかもしれないなあ。Web日記もこんな気持ちで書いているのかもしれないなあ(などど、あー気持ち悪、いえ、メールが、ではなくていい年コイテこんなこと書く私が)。

法学的な概念は(方法論的)行動主義的だと思うことがある。カレー事件で「動機」が問題だということだったが、裁判では事実関係が一番重要で、「動機」はある意味で副次的に扱われるのではないかと思う。裁判で問題になる「動機」は、かりに「容疑者」が「みんながにくいからやりました」と「自白」したとしても、それが証拠から合理的に、あるいは客観的に推測されるのでなければ「動機」とはみなされないのではないかと思う。したがって、本人の述べた「動機」と事実から推測された法学的「動機」がくいちがうこともあるのではないか。この場合むしろ法学的「動機」が真の動機とみなされるのではないだろうか。たとえば「過失」というのは、「意図的に」事故をおこしたと合理的・客観的に推測される事実が存在しないということだろう。しかし、法学は価値の科学でもあるので、「動機」や「意図」により量刑が異なるようにしているのだろう。ああもうすこしちゃんと法律学のベンキョウをしておけばよかった。


99/05/15(土)「無尽君と超教授の架空対話(その2)」

今日の超教授は宇沢弘文先生(「ゆたかな国をつくる:官僚専権を超えて」、岩波書店、1999)で、質問は昨日と同じく無尽君。脚色は「お若いの」。昨日同様この書物からの引用をもとにしてはいますが、あくまでも架空の対話としてお読みください。教育問題は第9章「学校教育の全般的危機」です。

--今日の日本の学校教育についてはいかがお考えでしょう。

「全面的危機という言葉がそのまま当てはまる」ような状況ですね。「日本の学校教育がいかに異常なものになっているのかをあらわす事件が毎日のようにテレビや新聞紙上に報道されています。」学校教育本来の目的である「人格形成と先天的、後天的能力の建設的発展という機能をまったく果たすことができなくなってきている」と思います。

--なぜこのような悲惨な状況になってしまったのでしょう。

「その根元には、非人間的、反倫理的な受験地獄を生み出してきた現行の学校教育制度の矛盾があります。なかでも、入試センター試験というおよそ考えうる限り最悪の大学入試制度」が初等・中等教育制度にもおおきな矛盾点を生み出し、「日本中いたるところで、大事な子どもたちを犠牲にしています。」

--大学はどうでしょう。

「教育・研究の両面で数多くの矛盾をはらみ、一種の内部崩壊に近い状況を生み出しつつ」あるのではないでしょうか。これらは「半世紀以上にわたって日本の教育を支配してきた抑圧的、非人間的な新学校制度のもたらした弊害はあまりにも大きく、、、文化、社会、経済、政治のあらゆる面に浸透し、日本社会はかつて経験したことのない大きな混乱を経験しつつあります。」

--学校制度そのものが疲弊していると?

「教育の問題を教育学を専門とする教育学者や教育行政を担当する文部官僚の手に委ねることはできません。こともあろうに、サッカーくじが文部省の手によって実行にうつされつつあるといった状態です。

--教育とはなんでしょう。

「教育は、人間が人間として生きていくということをもっとも鮮明にあらわす行為です。」

アメリカの哲学者ジョン・デューイは学校教育が果たす機能について、社会的統合、人格的発展、平等の三大原則をあげています。「社会的、経済的体制によって必然的に生み出される不平等を学校教育によって効果的に是正することができるというのはデューイにとって信念に近いものでした。」

--現在の学校はこのような原則を実現できないでいるということでしょうか。

「ボウルズ・ギンタスは、むしろ、「社会の抑圧的、不公正なヒエラルキーがそのまま学校教育制度に反映されて、学校教育自体が、社会的、経済的不平等を再生産する社会的装置となってしまった」という「対応原理」として定式化」しています。このきびしい条件の下で教育の理想を追求し実際に運営していくことができるのだろうか。「この設問に答えようとするのが、教育の本来的な目的である」と思うのです。

--そのような機会をもつことは可能でしょうか。

「教育のもっとも大切な機能は、一人一人の子どものもっている、インネイトな能力の蕾を大事に育てて、みごとな花に開花させることです。」このような機会を守るためには「基礎教育にかかわるすべての人間的能力、物理的施設、制度的条件は社会的共通資本としての特質」をもっているということを理解する必要があると思います。「決して市場的基準あるいは利潤的動機によって左右されてはなりません。」

しかし現状は、たとえば、教科書ひとつをとっても「教科書検定」に代表されるような「官僚専権の陋習(ろうしゅう)」がいたるところにあるのです。

--センター試験もその例でしょうか。

そうです。「日本の学校制度のもつ矛盾と欠陥をもっとも端的にあらわしているのがセンター試験です。、、、この信じられないような欠陥をもつ入試制度が20年間もつづけられ、大きな弊害をもたらしてきたことに対して、本質的な検討が加えられてこなかったことは単に文部行政の貧困を示すものだけではなく、日本の国立大学のありかたにも重大な欠陥が内蔵されているということ」を示しています。

「十代後半の若者たちがもっている、資質、才能、アスピレーションはきわめて多様、異質です。決して単一の基準によって、順序づけたり、判断することはできません。」このような個人の持つ資質やアスピレーションを「かなえられるような生き方を一生つづけて発展させることができるような環境を用意することが、高等教育のもっとも重要な役割でなければなりません。、、、このことはきわめて優先度の高い社会的要請だと思います。」

共通一次入試、センター入試の制度はこのような社会的要請を真っ向から否定し、、、各受験生の人間的、社会的成長を著しく阻害し、十代後半の感受性の鋭い、多様な才能を秘めた多くの若者たちに対して、はかり知れない損傷をあたえて」いるのです。

「かつて、日本の国公立大学は、すぐれた伝統をもち、きびしい研究、教育環境を形成し、多くの分野で、世界で主導的な研究成果をあげてきました。しかし、共通一次、センター試験の入試制度に象徴される戦後の高等教育行政の歪みは大きく、いまや大学の自主性、主体性の喪失はだれの目にもはっきりしたものとなり、自然科学、医学、工学など一部の分野を例外として、その栄光は過去のものになってしまったという危惧が現実になりつつあるといってよいでしょう。」

--教育基本法の第一条、第二条、第三条はジョン・デューイのリベラリズムにもとづく三つの理念を表現したものといわれています。これらが法律をまもるべき官僚によって破壊されつつあるということでしょうか。

現在もっとも重要で緊急を要することは、「現行の学校教育制度にかんして、制度的、構造的要因を冷静に分析して、教育基本法の理念にそって、リベラリズムの思想にもとづいた制度をどのようなかたちで構築したらよいかを提示し、その具体化をはかる」ことだと思います。

--そのような考えかたの中では大学はどのような姿になるべきなのでしょう。

「大学はあくまでも、4年制のリベラル・アーツの大学を中心にすべきです。、、こまかな専門分野の枠組みにとらわれないで、、、自由な立場で、あくまでも真理を追究し、一人一人の学生の全人格的完成を可能にすることを目的とした大学」です。「もちろん学問研究が大学で重要な役割を果たすことはいうまでもありませんが、、、研究は主として、大学院を中心として行われるのが現在では望ましいのではないでしょうか。」

「現行の制度は、大学における教育を中途半端な専門教育と、アカデミックな内容に乏しい大学院教育(自然科学を例外として)が中心となっていて、教育、研究の両方の面からもきわめて不適切なものとなっています。」

--カリキュラムはどのようなものになるでしょう。

「ひとりひとりの学生が、それぞれ各自の潜在的能力、知識的蓄積、職業的アスピレーションに応じて、それぞれ固有のカリキュラムをつくって、大学の4年間に何を、どのように学ぶかを主体的、自主的に決めることです。」このカリキュラムは「けっしてきびしいものであってはならず、一人一人の学生ができるだけ、時間的にも、精神的にも余裕をもって、、、大学の四年間が人生でもっとも楽しく、充実したものであるようにするのがリベラル・アーツの大学の究極的な目的」なのです。

--現在の大学にはこのような自主性とそれを寛容する余裕がないように思われます。大学はこのような学習の機会を提供できるように準備しなければなりません。前回の森嶋先生は大学の複線化を提案されていました。宇沢先生は大学の自律的な多様化による「複線化」を提案されているのでしょうか。

そうです。いくら複線化しても画一的な制度のもとでは序列化をさけることはできません。そのためにはくりかえしになりすが、大学の自立的運営とそれを維持するために教育機関は社会的共通資本であるとの認識が必要なのです。

--入試はどのようにおこなわれるのでしょう

入試については、センター入試のような画一的な選別ではなく、「できるだけ多様な大学、、、多様な基準と判断によって入学が決められるように」しなけらばいけません。

「数学、英語、国語、漢文などという基礎的な科目にかんして、ある程度の理解と知識が求められるのは当然ですが、それらはあくまでも、必要最低限の要請です。、、イギリスのケンブリッジ大学では各カレッジのマスター(校長)に次ぐシニアーの地位にある大学者がシニアー・チューターとして、イギリスの各地を回って、入学志望者を訪ね、本人のみでなく、その家庭、高校にも行って、カレッジの学生にふさわしいか否かを判断する資料を集め、入学の判断は主にシニアー・チューターの判断に任されます。

もちろんこれをそのまま適用するわけにはいかないとは思いますが、各大学は「入試のためにできるだけ時間と労力をつかいたくないという邪な心をもっていたことを、、、痛恨の念をもって思い起こ」し、もっと真剣に最善をつくすことが必要だというにとどめておきましょう。これは各大学がその大学の特色と独自性を獲得できた時点では、自ずとその入試方式は明らかになることでしょう。

--最近入試制度を改革しようとして「一芸入試」などの方式が試みられていますが。

「一つの大学が二種類以上の性格をもった入学者選抜基準を適用しようという試みや、一部の入学者について「一芸に秀でた」学生を選ぶという基準を適用しようとしている」大学ではとくに「学生の立場から大きな弊害をもたらす」ことになるでしょう。大学の多様化は「ひとつひとつの大学が、整合性を欠き、主体性を喪失した選択方式を採用するという」ことではないのです。日本全国に数多くの、それぞれ異なった個性、性向、伝統をもった大学が数多く存在して、受験生もまたそれぞれの個性と志望にふさわしい大学を選択して受験できるということ」が大学の真の多様性の意味です。

--大学院教育についてはどのようにすべきでしょうか。

「大学を以上のようにリベラル・アーツの大学として位置づけるとき、専門教育は、その上の学校で行われることになります。、、、大学院がそれに相当するわけですが、私はむしろ、丸山真男先生の発案にしたがって、専門学校と」呼ぶ方が良いと思います。「法学専門学校、経済学専門学校、医学専門学校、理学専門学校、工学専門学校、文学専門学校、農学専門学校などです。」

専門学校のカテゴリー、、には、是非、、、技術、技能について、また、多くの伝統的技能。技術を含めた職業的専門学校の制度」を追加すべきです。これらは年齢的には10代後半の学生がはいることになりますが、社会的位置づけは大学院レベルの専門学校が望ましいでしょう。

「年限は特に規定する必要はありませんが、三年程度を一応の目安にし、、、専門学校の修了は、博士論文を仕上げて、博士号の取得になるわけです、、、在学期間は二年間を必要最低限と」すると良いと思います。

「現在の大学院制度は、前期二年の修士課程と、その上に後期三年の博士課程と、合わせて五年を必要最低限の在学期間としていますが、これはまったく非常識極まりない長期間で、世界にその例がありません。一説によると、英語の原文を文部省の官僚が訳し違えた結果だと言われています。」

--二人の超教授のお話を伺うと、現在の大学は3年くらいにしたらよいと思うのですが、

そんな妥協的な結論をだそうとするからおかしなことになるんじゃ。大学の自律により多様性と個性を発揮すること、それが実現できる制度にあらためることが必要なんじゃ。特に教育機関のばあいにはそれが私立大学であっても国公立大学であっても社会的共通資本であるとの認識にたって、大学の自立性と独立性が確保されることが緊急要件なのじゃ。外的な圧力、センター試験がその代表的なものじゃが、による学生の選抜という事実はこの要件を踏みにじっておるのだぞ。

いずれにしても、「一人一人の子どもが本当の意味で幸せになるためにはどうしたらよいかという観点にたって」考えてみることじゃな。お若いの。ほーほーやっぱりよく見るとそれほど若くもないようじな。まあいいじゃろう。


99/05/14(金)対話形式の練習:「無尽君と超教授の架空対話」

以下は向後センセイ風対話形式で森嶋通夫氏の「なぜ日本は没落するか」(岩波書店、1999)の第6章「教育の荒廃」の教育改革に関する部分を脚色したものです。大部分この書物からの引用をもとにしていますが、あくまでも架空の対話としておよみください。

日本の現状について、「精神の荒廃」、「金融の荒廃」、「産業の荒廃」という章において分析のあと、「教育の荒廃」の章にはいる。

--進学率と高等教育の質にはなにか関係があるのでしょうか。

「進学率がたかくなればなるほど大学の質は悪くなる」というのがワシの持論じゃ。(同学年の)40パーセントの者が、まずまず理解し得るほどには大学の教育内容はやさしくあってはならないのだ。いまのままでは(大学にふさわしいレベルの教育内容を維持しようとすれば)大学生の半分以上は授業がわからないままに大学を卒業してしまうことになってしまうぞ。いくつかの大学をのぞいて教育に専念すべきじゃ。」(123ぺーじのだいたいの内容)

 

--大学改革には高校の問題も考えなければいけないと思うのですが

「日本がいま必要としているのは、、、いわゆる博学の人ではなく、自分で問題をつくり、それを解きほぐすための論理を考え出す能力をもった人」たちなんじゃ。そのためには「こういう意欲をもった人の集まりを教育する小規模な学校を、、、、、わかりやすい言葉でいえば、それはリベラル・アートの自由学校というものになろう、、、これを全国に5校ほどもつくりさえすれば」状況はかなり改善されるだろう。(134ページ)

教育体制では、「知的な発達のもっとも旺盛な10歳代後半の人々の能力を高める」ことがもっともタイセツじゃ。このわしなんぞはもっとも良く勉強したのは高校生のころで時期で、そのころ鍛えなければダメじゃ。そのためには、

「高校での教えすぎの課目数を大幅に削減する」センセイは教えすぎだ。日本人はどうもガクモンとは知識を多く集めることだと考えて、記憶力は磨くが、「考える」ということを甘くみている。「なぜか」と尋ねることは迷惑がられる始末じゃ。

「高校の課目はできるだけ統合して(大講座制にしてその分野の教育を共同して行うようにする)、、、このような課目のごく少数の課目に合格すれば大学への入学が許可されるようにする」のがよいじゃろう。(イギリスではAレベル(かなり難しい試験)の試験に三科目合格することが大学入学の条件)また、英語についても日常生活に役立ち、また、大学での研究するのに役立つような英語を教えるべきじゃ。そして誤解をおそれずに言えば、選別を厳しくしなければならない、ということだ。平等の名において選別をなくするのは、子供に対する愚民化政策である。

--・選別は「差別」にならないのでしょうか。

「差別はいやだということを主張して、悪平等という逆差別を尊重するのは全く馬鹿げておるぞ。」

--進学率を押さえると、現在よりも全体の教育水準が低下するということにならないでしょうか。

これはあくまで緊急避難の方法じゃが、「進学率をおさえる、、(ためにいまできることは)、、大学の複線化をはかることじゃと思う。現在の大学を、大学部と専門部にわけてもよいし、大学別に「純粋」大学と「純粋」専門部大学にわけてもよい。純粋大学の進学率を15%、純粋専門部大学の進学率を25%程度にする。このようにすれば純粋大学では現在の修士・博士課程のレベルの講義が可能だろう。一方、専門部卒業生の1/5は大学院修士(専門部補習科)に入学できるようにして複線間の流動性を損なわないようにしておくべきじゃ。

実質的にすでに教養課程は廃止されているのじゃし、二年間で専門部を終了したら学士になれるようにすればよいのじゃ。いまの大学と反対に専門部終了後2年間は教養課程の勉強をするためにのこってもいいようにするのじゃ。4年間いても同じ学士号なのじゃから、はやく社会にでて活躍すればよいし、勉強したいものは大学にのこれば良いのじゃ。何も大学まで来て他愛のない話題に時間をつぶす必要はないのじゃ。これだけでも複線化に近い効果がでることじゃろう。これなら現在の高等教育の進学率を落とすことなく、各種大学の質を向上させることができ、それぞれの才能の無駄遣いをすることもないのじゃ。

--現在の短大との違いはなんでしょう。

専門部大学では現在の「専門的学芸」のみを2年間で終えるのじゃ。実質的には大学の専門課程の修了程度の専門知識を伝授できるのじゃ。そこのお若いのが関心をおもちの授業技術によってこの程度の短縮は可能じゃろう。

--短大のカリキュラムから「一般教養」部分をのぞけば専門部大学と同じあつかいで良いと思われますね。なるほど超教授は進学率を下げよといっておられますが、この体制だと「高等教育」をうけることのできる割合(進学率)をさらに向上させることさえ可能ですね。

--純粋大学への進学と純粋専門大学への振り分け・選別はどのように行なえばよいのでしょう。いまと同じようにだれもかれも大学部に行こうとするのではありませんか。

 

「大学行きと専門部行きをわけるためには共通一次試験のような選別試験が必要じゃ。しかしその試験問題は文科系統の学部の場合、、、たとえば「人間には神が必要か」というような問題一問でよいのじゃ。試験勉強の必要はないし、この問題への受験者の答案を読めば、大学で学べる人かどうかの判定はすぐつくであろう。」

 

--なるほど、でも共通一次試験は廃止するべきだと思っているのですが、このような試験なら大学の先生もケンシキをとわれることになりますね。

---現在、教養部は廃止され、一部の大学では教養部は学部化され、かなりの大学が大学院大学(純粋専門学校)に移行しつつあり、森嶋案に近い動きのようにも見えますが。

「うんにゃ、学士号を二年終了で卒業させるようにしなかったことが似て否なるものになってしまっている原因じゃ。そのため、学生生活は時間のたっぷりある楽しい青春時代に」なってしまい嘆かわしい限りじゃ、これではせっかくの複線化の意味がない。」

もうひとつの「高学歴化」の問題は現在の大学院の問題じゃ。ばあいによっては教育時代を終了するのが30歳代前半にもなってしまうことさえある。これは本人のためにも社会のためにも放置しておいてはイカンことなのじゃ。

--この問題については、宇沢先生も(宇沢弘文著、ゆたかな国をつくる、岩波書店)日本の大学院の制度は誤訳がもとになっているらしいということをお書きになっていますね。つまり、現在の大学院制度は「修士課程」と「博士課程」を並列におく、という英語でかかれたお手本をどうも修士課程2年ののちに博士課程3年というようにまちがえてしまったという説があるそうですね。Englishを文字通り英語と訳してしまった人達の誤訳なのでしょうか。宇沢先生もこのような長期の教育は世界的にみても異常で例がないとふんがいしておられます。(166ページ)

いまやとっくに文教バブルの時期はすぎたが、私立大学はすばらしい建物がつくられ、豪華な教室や学生ホールは学生や大学をすっかり軟弱なものにしてしまったのじゃ。しかも日本人にはこういうものが先進国の大学生活なのだという思いこみもあるようじゃな。たしかにアメリカの一部の大学の建物は豪華なものもあることは本当じゃ。しかし学生自身は貧しく質素に自分のガクモンを追求している者がはるかに多いのじゃ。一番大切なものをとりいれていないことがなげかわしいのじゃ。

いまの大学や高等教育の体制ままでは日本の教育や研究、ガクモンの貧困はさらに悪化し、やがて、これに起因する中長期的没落から逃れることはできないのじゃ。これは放置しておいてはダメなんじゃ。わかったかい、お若いの。よくみるとそれほど若くもないようじゃな。この程度にしかまとめることができんようじゃー、ワシはますます心配になってきたぞ。まあそこのお若いのの個人的な問題じゃろうが。


誤解している部分があるかもしれません。ぜひ原典をご参照ください。


99/05/13(木)「言語表現科目」

午前中知覚心理学。色覚理論の補足説明。視覚の成立要因として眼球運動・静止網膜像の実験。

きょうは出席簿がやっと配布になって最初の講義だったので、出席をとった。代返1名と、授業終了直前にあらわれた学生が出席のとき名前をよばれなかった、と言いに来た。Shame on you!

午後から卒論・ゼミ。時間割は5限がゼミ、6限が卒論だが、4年生は履修科目が少ないため卒論を4限に変更。来週から卒論の後半30分程度をゼミと重複させて4年生の卒論状況の説明を各自5分程度おこなうように相談した。ゼミでは私が現在興味をもっている問題と心理学の応用(出口目標)についての話をする。来週からテキストの演習開始。テキストは多様な学生を考えて心理測定法に関するテキストに決定した。

昼過ぎメールを確認しようとしたところPowerMac7600/200(NewerのG3カード233MHzを換装)がフリーズして、立ち上がらなくなってしまった。ハードディスク容量不足か、なにかファイルが壊れたらしい。G3カードをはずして、システムを再インストールした(MacOS 8.5 + 8.5 updator)。いぜんより動作がきびきびする感じになった。ときどき再インストールするとよいのかもしれない。200MHzの604にもどしたが、G3の233のカードのときとあまり違わない感じだ。ハードディスクの速度の方が大事かもしれない。とりあえずこれで様子見。

授業を終えて教員談話室で夕刊をみたところ、日経新聞(夕刊)に「大学で増える日本語授業:まずはイロハから、、表現力低下に歯止め」という記事で、富山大学の「言語表現科目」ほかいくつかの大学の取り組みの紹介。ディベートもとりいれているという授業風景の写真があった。しかしディベートばやりですなあ。「毎日日記をかく」という向後先生の課題はユニークだとおもうのだが、これにはふれられていない。

また、いろいろな「補習」的授業が必要になっているということにはいろいろ意見もあるようだ。しかし、筒井氏(富山大・人文・教授)のいわれる「高校までの教育や学生だけを批判しても何もかわらない」というのは誠実な現場の声だと思うし共感もするのだが、同時に、大学システムそのものが変革の時期を迎えているということを意味しているようにも思う。

SさんよりOBの就職アドバイス関係のページの追加データのメール。


99/05/12(水)システム交換作業・「業界」用語

午後から二つ会議。私事の事務手続き。新入社員?君の対応。これは個人の資質によるものだなあ。今日は個人研究室のPowerMac7600/200が不調。やたら落ちる。HDDの残り容量がわずかになっていた。とりあえず(旧)G3MacDT233とHDDの内容交換の作業をすこしやった。小さいファイルだと非常に便利なappleTalkだが、Ethernetでのファイル転送も結構時間をくう。これだとインストールし直した方がてっとりばやいか。

昨日院生Sさんのメンター(指導教授と呼ばない習慣)のセンセイから、リーダー(指導教授補佐?)を依頼される。集団指導体制に慣れていないのでどうしたらいいものかと思う。メンターといのはメンタム(メンソレータムのことを子供の頃こう呼んでいた)をおもいだしてどうも鼻がすーすーしてむずがゆい。それにしても、これにかぎらず公式の役割や仕事に英語を使うのをやめたらどうかと思う。実質的にそのことば本来のあり方を実現する意志があればハナシは別だが。

MacOS6.58.6のアップグレードを申し込む。フルインストール版。アップルの開発者会議のニュースではG3PowerBookが発表になった。windows系のA4オールインワンの水準に追いついたという印象だ。

今朝プランターに水をやったところ、かなりの発芽が見られた。分布が偏っているのは蒔き方がまずかったのだろう。


99/05/11(火)集団検診・液晶プロジェクター・事務能率

午後からの学部の研究法は運悪く?専攻学生の集団健康検診に指定された時間にぶつかり、教室に行ったところ大半の学生が出席できないとのことだ。しかたないので自習ということにした。集団検診は「義務」付けられているようだが、この時期に授業が一回できないことがある。

つづく大学院の研究法はふたたびQ棟の電算室で行った。今日は記述統計の復習・補習で相関係数の説明。簡単な数式やその意味を手書きしてOHCを通じて学生のパソコンに「放送」。画像解像度はかなり粗いもので、小さいモザイクが見えるデジタル的画面である。学生は各席のパソコン・ディスプレイ上で「板書」を見ることができる。こみいった説明には適していると思う。(ただOHCのモニターディスプレイが見にくい位置にあり、「板書」の確認をする度に不自然な姿勢でモニターをみなければならない。機器の位置を変えるべきだなあ。)

教室変更の連絡の行き違いもあり、15分程度ロスしたため、SPSS実習の時間をほとんどとれなかった。つづいて行動適応学。3時間連続だとやはりちょっと疲れるので、履修者は数名なので時間変更を相談したのだが授業などぶつかっていて変更できない。そろそろ演習にきりかえようかなーとも思う。

大学院は講義や授業よりもガクモンしてほしいのだが、登録だけして欠席している学生はいったいガクモンに励んでいるのだろうかと、老婆心ながら。

昼過ぎに雷鳴とともににわか雨。

国際部のF教授にプレゼンテーション教室のパソコン設置の件でZipドライブを検討してくださるようにお願いしておいたが、どうやら予算に収まりそうとのお話だった。R棟1階には半円形・階段状のプレゼンテーション教室が4室ある。それぞれデスクトップを設置するということだ。これはこれで一歩前進というところでグッドグッドなのだが、やはりプロジェクターの問題が残されている。教室設置のものだと部屋をかなり暗くしないと見ることができないので、なんとかポータブル型の液晶プロジェクターを常設しておけないかという提案だ。いまのところいちいちケースから出して、セットアップして、講義が終わったら後かたづけするというのは煩雑だ。常設がなんらかの理由でできないのであれば、教室関係の設備のセットアップをするTAをおくべきだと思う。こんな障壁のためにプレゼンテーション教室が活用されないのはもったいないことだ。機器はケースのなかに大事にしまっておいても、なんにもならない。

J会議の議事録は事務方担当者が変わり、なんと、前任者とつかっているワープロ(ソフト?)がちがう(!)ということで、前任者の担当分が、明日までに間に合うか微妙との連絡。オイオイ、なんのためにテキスト形式で渡しているのだ。議事録のような文書のファイル変換なんてなんでもないことなのでちょと理由がわからない。ひょっとして特殊な書式テンプレートを使っているのかもしれにない。まあそれでもテキストを流し込むか、ペーストすればすむハナシなのだが。


99/05/10(月)実験実習

午前中実験実習1用のプログラムの修正。マッカロー効果の実験デザインを変更したため。プログラムはDelphi3.1で書いているのだが、フォーム(ウィンドウ)のサイズに不明な点があり、CRTサイズを同じにしているのに、1台のコンピュータ(ホワイトボックス)で他のコンピュータ(Dell、4セット)と異なるサイズのフォームになってしまう。

オブジェクト形式のプログラムのばあい、フォームやボタンのスクリプトをプログラム本文に明示するが、同時にオブジェクト・インスペクターのようなもので属性を設定する。こちらはプログラム本文に明示されないので、確認しにくい面がある。すべての属性設定を確認しているわけでもない。たぶん何かのパラメータの設定を忘れているのだろう。

結局実習の開始直前にDellの本体を一台拝借してきた。ディスプレイだけ借りればすむと思っていたのだが。しかし、幸い?実験グループ(2年生、Dグループ)の1名が欠席したために8名で実験実習となり、既設のDell4セットをつかって、4名ずつ2サイクルで実験終了した。

実験実習2のほうはカテゴリー弁別の第2グループ目。こちらは9名だが、実験所要時間は各自の習得ペースで異なってくる。こちらはパソコン5ないし6セットを使用して、各自実験終了しだい交替していくのでかなり能率はよい。今日の3年生Dグループは学習完成基準に達するのがかなり早く前回のグループからの情報漏れかと思ったくらいだった。実験実習ではグループ毎に多少実験条件やパラメータを変更するが、基本的には同じ実験なので、もしかすると実験グループ毎に時系列的な変化があるかもしれない。データは明日TAにわたしてアウトプットなど依頼すること。

昼頃久しぶりに学内のB教授のホームページを覗く。デザインがちょっとかわっていた。昨日とりあげたWeb110番がすでにリンクされていた。

週の前半が出校日のセンセイ方はなんと1012連休明け。15週の講義は長丁場で、「ゴールデンウイーク」がその中程(5月中旬)にあればちょうど良いなーなどと思う。

午前中、4年生のIさんの卒論の相談。おおまかな方向性を相談。この方向の文献検索をするように話す。


■大学往来インデックス  ■index_hobby