ノートパソコン実験授業・日誌 ■ノートブック日誌インデックス


99/2/14(日)電子出版のツール

ノートパソコン実験授業の個人的な目標の一つであったテキストの電子出版について。ツールとして、HTML書類、アクロバット、エキスパンドブックII、PowerPointなどがあるが、どれがいいのだろう。Webサイトにすぐにのせられるという点ではHTML書類によるホームページ形式が手軽だ。授業でつかうPowerPointのスライドに補足説明を追加するという手もある。アクロバットがやはり定番なのだろうか。エキスパンドブックだと本格的な電「紙」本のような感じがする。レイアウトもきれいだし、利用者が「本」のように利用できる点(「しおり」をはさんだり、「メモ」を書き込んだりできる)が魅力だ。ウィンドウズ用には閲覧ソフトもあるようだからプラットフォームの心配もなさそうだ。ただ、インターネット情報としての共通のデータベースになじみのいいシステムはやはりHTML形式なのだろうか。

以前、エキスパンドブックを調べたのだが、流通させる場合には価格の1%を利用料(?)としてボイジャー社に支払わなければならないということだった。これは今もかわっていないのだろうか。無料で配布することはできるのか、などの点を検討すること。図表や写真などの掲載許可の手数は大変だろうなあ(Web上ならリンクですむのだが)。

電子出版なら、絵や写真、動画なども大量に利用できる。「紙幅」の心配をする必要がないので、米国風の分厚い入門テキストを日本でも個人的につくることができる。心配としては比較的大容量のディスケットをどれにするか(MO、ZIP、SUPER DISK、CD)、Webサイトからのダウンロードの所要時間くらいのものだろう。


きょうはバレンタインデーでツレアイからチョコレートをもらった。一応なまチョコ。バレンタインデーのチョコレートの商戦はチョコレート業界にプラスかマイナスかという話をした。せっかくおいしいもの(しかもけっこうクセになりそうなモノ)を期間限定商品にしてしまうマイナスがあるような気もする。しかしホワイトデーの方は、ホワイトチョコレートはチョコレートそのものとしては劣ると思うので、これの在庫一掃に役立っている。ことしは日曜日ということで商戦は短かったようだが、それでもここ数日は近所のデパートなどはすごい人出だった。
99/2/13(土)再試験問題

昨日、教務課よりファックスで再試験は不要になったとの連絡。考えていたモンダイは後期の講義内容から選んだ8項目について(これらのうち5項目は定期試験で出題した)、各項目400字以上で説明しなさいというもの。ただし、再試験は「筆記試験」ではなく、質問項目をあらかじめ公表し、ノートや教科書で調べ「回答レポート」を作成し期限までに提出しなさい、というレポート形式に変更。学期中の内容を全般的に復習することになるので、再試験ならこれでもいいかな、と。しかし、各項目400字というのは講義シラバスみたいなので、くわしい講義内容をWeb公開するようになると、こんなモンダイではちょっと簡単すぎるか、場合によっては「丸写し」がでるようになるかもしれない。

例年、卒業条件ギリギリで履修登録する学生がいてヒヤヒヤする。余裕をもって履修登録して、「再試験」までもつれないようにするべきだと思う。これは履修登録数に制約がないからで、セメスターあたりの登録に下限を設けるようにすべきかもしれない。履修の制限を検討したある大学では(私学連盟の機関誌によると)、上限については、「学ぶ自由」をうばうという意見もあるようだし、下限については「学ばない自由」もあると主張される方もあったそうだから、一筋縄ではいかない。

学内のある会議の書記のような委員をしている。会議録を事務方に頼んでいるのだがどういうわけか数ヶ月もかかり、前回の会議の確認がとれないのでちょっと困っている。それでいっそのこと会議室へノートパソコンをもちこんで、会議の記録をとってしまおうか、という話になって、次回試してみることにする。タイプの音や振動の対策が必要。


99/2/12(金)ATOK12

Mac用のATOK12が配達されてきた。ATOK11をつかっていたが、数日前にアップデートの申し込みをしていたものだ。ATOK11で別段不満はなかったが、MacOS8.5でちょっと変換ウインドウのゴミがのこったりするバグ(?)があったのでこれらが解消されているかもしれないと思い注文した。漢字変換については長年「単文節」程度で変換していたので、たぶんATOK12のようなAI変換の恩恵はあまり受けることはないかもしれないのだが。「入れ立てのお茶」。動作が遅くなるのではと心配だったが、むしろATOK11よりも応答が良い感じがする(PowerMac7300/166)。

漢字変換で思い出すことがある。高校生のころだったと思うが、梅棹忠夫氏の「知的生産の技術」(岩波新書)を読んでいらい、タイプライターで「作文」するということにあこがれてきた。ほんのなかに「ひらかなタイプ」でかかれた例文が載せられていてシンプルでキレイだと感じた。大学生になってから、このひらかなタイプなども買い込んで、ひらかな表記+ローマ字でレポートなどを書いた記憶もある。うけとられたセンセイは困惑されたことだろう。

最初はひらかな表記でわかちがきを試みた。優しい印象だがちょっと読みにくいこともたしかだ。「漢字をつかわないから、読みにくい」という意見もあるだろうが、ここは「漢字を使ってきたから(ひらかなだけでは)読みにくい日本語表記が定着した」という意見に賛成したい。(「聞いてわからない日本語表記」になってきているということも同じ考え方で理解したい。このような意見に荷担したいのは、私が漢字の書き取りが苦手であったこと、悪筆であることへの恨みである。学生の答案やレポートなどもきれいな字だとなんだか内容までいいような感じもする。レポートはワープロ書きが定着してきたので字のきれいさに惑わされることはなくなった。)

この日誌でもみょうに漢字をカタカナ表記した部分があるのは、ひらかなとカタカナを組み合わせてつかえば、漢字をあまり使わなくてもすむのではないかと考えていた頃の名残だろうと思う。しかし、一般的に使われている漢字をカタカナ表記するとなにか強調したり、別の意味をもたせようとしているのではないか、というようなメッセージを伝えてしまうことがありそうだ。また、カタカナのところでやはり漢字を想像させるので、正しい方向とはいえないかもしれない。

漢字変換ソフトが「進歩」してしまったために、漢字表記のモンダイはあまり議論されなくなったように感じている。私も書けない漢字を多く使っているが、漢字は少ない方が良いと思っている。


99/2/11(木)再試験

「卒業のための再試験」制度がある。再試験の制度というは、進級や卒業の学年で、それぞれの条件を満たせない学生にたいして再度のチャンスを与えようという制度のようだ。卒業や進級条件にたいして、数科目の範囲の単位不足の学生が対象となる。教員も学生も「救済」制度と考えているフシもある。

私の科目の場合、試験は「持ち込み可」であったので、これに不合格というのは準備不足か出席不良だろう。「持ち込み可」の試験が不合格で、再度試験を行って「合格」できるものだろうか。大学受験のような試験の場合には、運不運、健康状態などが影響するので2回チャンスを与えることは意味もあろうが。再試は、あくまでも知識の不足を補う努力を求める制度であると思うので、もし該当者が出た場合には、この方向で考えることにしよう。

ちなみに、定期試験を病気などの「やむおえない」理由で受けられなかった学生は「追試験」を受ける。追試験と再試験は学生ばかりでなく教員もよく混同している。用語をわかりやすくすべきだなあ。


いうまでもないことですが上記の「解釈」は私の個人的見解で、大学の公式の見解ではありません。
99/2/10(水)タダ(?)になるパソコン

この日誌を書き始めてから半年ほどたった。大学としてはノートパソコンの価格に苦しんでいる。学生全員が所有するには25〜30万円という価格はやはりおおきな壁だ。この間にノートパソコンの価格も下がってきて、当初想定されていた性能を満たす機種は18〜22万円くらいになってきた。特にごく最近各社から発表された18万前後のノートパソコンは重量以外は条件を満たしている。本格普及価格にはもう一息。デスクトップは比較的安価だったが、さらに、500ドルパソコン(日本では6-8万円)まで下落してきている。

米国では「タダ(無料)のパソコン」も登場し、類似の企業が増加することが見込まれている。機種は500-1000ドルパソコンでインターネットに接続して利用する。http://www.zdnet.co.jp/magazine/pcmag/9902/t990208c.html

無料のパソコンを利用できる条件は次のようなもの。「視聴率」調査のモニターのようにデータを提供することが条件で(ただし個人情報は公開されないとの契約)、この「視聴率データ」と広告費用で会社を経営するとのことだ。日本でも早晩この種の会社が現れるのだろう。

調査モニターではたいした規模にはならないと思われる。パソコン・ハードウエアの無料化のもう一つの可能性は、携帯電話のように本体はほとんど無料で「利用料」だけ支払うというスタイルも予想されている。料金が適切なら、このようなビジネスも成り立つのだろう(コンピューター・オン・デマンド。インターネットへの接続状況のチェックをして、もし接続されていない場合には使えないようにするのだろうか)。

ソフトウエアの無料化といい、ハードの無料化といい、パソコンのビジネスは本当にこれで成り立つのだろうか。不思議な感じもするが、ビジネスそのものもパソコン・インターネット環境で大きく変化しているのだろう。


昨日はゼミの追いコン。場所は「巴里の食卓」という店。どうゆうわけか、料理は和風+イタリア風だったが、どれもおいしかった。ワインもお値打ち価格。今年は2年生が参加してくれたのでにぎやかな追いコンだった。おもしろかったのは19名の学生で各学年一人ずつ「ふたご」がいたことだった。2年生のKさん、3年生のSさん、4年生のNさん。ふたごについての有名な研究で、うまれてまもなく離ればなれで育てられたふたごを調べ、成長後はじめて出会う機会をつくった調査がある。この研究では、ふたごのいろいろな特徴(身体的のみでなく心理・行動的な特徴など)非常に類似していて驚いたことがある。この3人に聞いてみたところ、いっしょに住んでいるばあいには意識的に別のものを選んだりすることもある。親も見分けやすいように違う洋服をそろえたりするのだが、久しぶりに会うような機会があると、お互いよく似た洋服とかアクセサリーを持っていた、というようなことがあるそうだ。卒論のテーマにもなりそう。

また、確率計算の例題のようにちょうど誕生日の学生がいた。S君は「追い出される」4年生だが、今日のパーティは自分の誕生会だと思っていた、と挨拶していた。昨年留年したY君はほんとうにうれしそうであった。それぞれなかなか機転のきく挨拶をして、この一年間で「成長」したように感じた瞬間だった。

「顔」についてのテーマで卒論を予定している3年生のTさんに、朝日で連載している科学記事のコピーを渡したところ、Tさんもスクラップしているとのこと。情報収集している様子でよろしい。


99/2/9(火)努力は報われる?

昨日の卒論発表会の途中、昼食のとき、成績評価の話になった。ひとつは卒論の指導にゼミにより濃淡があること。これは学科の習慣やセンセイの方針によってさまざまで、極端なばあい、「一度も相談にこなかった」という例もあるようだ。「楽」をして卒業しているのではないかということを述べる方もあった。これには「一生懸命やっている学生が報われない」ということが反対の意味としてあるのだろう。しかし、これらは別の問題だ。いっしょうけんめいやった学生は多分報われている。「努力しなかった」学生を「落とす」ことで報いることはできないのである。「楽をした学生も卒業できるから(自分の努力は無駄で)報われない」ということではないだろう。もし一生懸命やった学生が自分の「努力」を引き合いに出して、そのようなことを言うとしたら教育的配慮により不可をつけたいくらいだ。

いつだったか、数学の秋山センセイのテレビ番組をみていたら、センセイは衝撃的な発言をされた。「努力は報われず、正義は滅びる。いつか努力は報われるなんて考えてちゃーいけないよ。多分努力は(努力のみでは)報われない。しかし、それでもやるのだ」。この「しかしそれでも」というトコロが大切なのだと。

秋山センセイのようなテンサイの例は参考にならないかもしれないが、成績評価がオオザッパなことにはモンダイがありそうだ。いまはA、B、C、D(Dは不可:不合格)の4段階で評定するようになっている。AとDは採点者としてもはっきりした基準で決めることができる。問題はCとDのボーダーである。かぎりなくDに近いCと、本来の妥当なCが一緒の評価になって、どうも良くない。Cを限りなくDに近い評価段階にしてしまうと、残るのはA、Bの2段階のみで、非常に粗い評価になってしまう。

レポートを採点するときには、ABCの各ランクに+-をつけて、A+、A、A-、B+、B、B-、C+、C、C-、D(Dは不合格)の10段階で採点している。非常によくできたレポートの評価もできるし、かぎりなく不合格に近いことを知らせることもできる。C-というのは実習に出席してはいるが、レポートが不十分という場合で、再提出である。実習なので出席して実験なりを行い、レポートを提出することが最低基準となる。欠席したりレポートが未提出のばあいにはDである。この評価方式だと大体学習に応じた評定をつけることができる。経験的に、教員間の「一致度」もかなり高いものである。

進級・卒業の時期をむかえ、「不可が半数以上」のセンセイなどが非難されるニュースが聞かれるようになる。このようなニュースを聞くたびに、成績とはなんだろうと考える。もちろん教え方がマズくて合格点までいかないという場合もあるだろう。しかし、センセイとしては基本の基本のみに厳選して学生の準備状態も考えて授業を行い、それでもこのような事態に立ち至るということもあるだろう。新聞などではこのあたりの事情が分からない。もしこのように教員は十分な努力をしたが、結果として大量の不合格者がでてしまう、というような場合、その科目が教育に不適切だ、ということになるのだろうか。あるいは相対評価に切り替えてしまうべきなのだろうか。センセイの教え方が悪いとして、単位をだすべきなのだろうか。

成績には、その科目で要求される水準、教員の責任、学生の努力が関わる。そのため成績を決めるのは難しいことだ。特に、「不合格」は難しい問題だ。成績の評価にはいろいろな意味と方式があると思う。たとえば、全員Aをつけられ、「成績なんてものはなんの意味もないのだ」と考えておられるセンセイもあるし、実際そうかもしれない。Aをつけたからといって、学生が「報われる」なんて考えている方がどうかしているのかもしれない。しかし、授業を行う立場から言うと、成績はやはり学習内容の理解の程度に応じて評価したいと思う。「不合格」をだしたいのではなく、成績の評価を行いたいのだ。出席日数の不足はやはり不合格とするが、それ以外の場合には学んだことはゼロではないだろうし、テスト方法によっても点数自体はかなり変化する。私としては評価段階をA+、A、B、C、C-、Dの6段階くらいに変更して、「学習不足の状態」や「特に良好」の評価をすると良いのではないかと思う。

試験も最後に定期試験一回というのではなく、途中で小テストを何度か実施するべきかもしれない。たぶんこの方が学期全体の評価という意味では妥当な方式かもしれない。


個研で購入したDell V333cが納品された。このクラスのパソコンが個研の一部で購入できるようになったのはちょっとした驚き。昔のアップルコンパチより安いくらいだ。一部申請したオプションと異なる組み合わせで入荷されてきた。Dellのホームページでオプションの指定をして価格を調べ、それをもとにして業者に見積もりを依頼したのだが。研究助成室へ購入依頼の書類を出してから納入されるまでに数週間要しているが、その間にもパソコンの価格は低下し、性能は向上しているのがちょっと悔しい。機構上やむおえないが、「立て替え」を認めてくれれば、直販システムの場合お買い得になるのだが。

午後から入試結果についての会議。終了後、ゼミの追いコンへ。


99/2/8(月)今日は卒論発表会。

一人10分の持ち時間だがだいたい時間オーバーしている人がおおい。ゼミの学生は練習よりもはるかによくこなしていた。話す内容をよく制限してまとめ直し、努力をしたようだ。本番ではよくわかる発表ができたと思う。

全体としては、欠席者が目立ちちょっと残念。気になる問題点としては、基本的な事項に誤解のある例も散見された。あるいは、前提としている理論や考え方と矛盾するデータがでているにも関わらず、「仮説は妥当であることが示された」とか、「有効性が示された」などというものもあった。

次年度の時間割のことで助っ人のため、午後からの発表分の半分ほどは聞くことができなかった。この作業が結構ながびき懇親会も欠席。明日のゼミの追いコンはぜひ出席しなければ。


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