【英文学コラム】うまく話せる人がうらやましい??
立て板に水のごとく、次から次へと言葉が出てくる人を見ると、なんだかうらやましくなることがあります。言いたいことをその場ですぐに言葉にできる。しかも、相手を納得させるように話すことができる。そういう人を見ると、「自分もこんなふうに話せたら」と思ってしまいます。
シェイクスピアの『リア王』には、まさにそんな「話すのがうまい」人たちが登場します。物語の冒頭、リア王は三人の娘に、自分をどれほど愛しているか尋ねます。そして、その答えに応じて王国を分け与えようとします。長女ゴネリルと次女リーガンは、ここぞとばかりに父への愛を言葉にします。ところが、末娘のコーディリアはうまく答えることができません。彼女の答えは、たった一言、“Nothing, my lord.” 「何もございません」。
シェイクスピアの『リア王』には、まさにそんな「話すのがうまい」人たちが登場します。物語の冒頭、リア王は三人の娘に、自分をどれほど愛しているか尋ねます。そして、その答えに応じて王国を分け与えようとします。長女ゴネリルと次女リーガンは、ここぞとばかりに父への愛を言葉にします。ところが、末娘のコーディリアはうまく答えることができません。彼女の答えは、たった一言、“Nothing, my lord.” 「何もございません」。

もちろん、コーディリアは父親を愛していないわけではありません。むしろ、娘として父を愛するのは当然のことであり、それ以上でもそれ以下でもない、と考えているのです。だからこそ、姉たちのように大げさな言葉を並べることができません。しかしリア王は、娘たちがどれほど自分を愛しているかを、その言葉の多さや巧みさによって判断してしまいます。よく話す娘たちを評価し、言葉にできないコーディリアを怒って追放してしまうのです。
ここで考えさせられるのが、そもそも愛情は量ではかることができるのだろうか、ということです。たくさん「愛している」と言えば、それだけ愛情が深いのでしょうか。反対に、うまく言葉にできなければ、愛情が少ないのでしょうか。リア王はその二つを取り違えてしまいます。言葉が多いことと、愛情が深いことは同じではない。そして、言葉にできないことと、愛情がないことも同じではありません。
私たちもまた、大切な人の気持ちをその人がどれだけ言葉にしてくれるかで考えてしまうことがあります。けれど、愛情はときに言葉の多さではかれるものではありません。そう思うと、400年以上前の『リア王』に描かれた三人娘の場面は、遠い昔の家族の物語ではなく、私たちにも覚えのある出来事として読めるのではないでしょうか。
(コミュニケーション学科教授:眞部多眞記)
ここで考えさせられるのが、そもそも愛情は量ではかることができるのだろうか、ということです。たくさん「愛している」と言えば、それだけ愛情が深いのでしょうか。反対に、うまく言葉にできなければ、愛情が少ないのでしょうか。リア王はその二つを取り違えてしまいます。言葉が多いことと、愛情が深いことは同じではない。そして、言葉にできないことと、愛情がないことも同じではありません。
私たちもまた、大切な人の気持ちをその人がどれだけ言葉にしてくれるかで考えてしまうことがあります。けれど、愛情はときに言葉の多さではかれるものではありません。そう思うと、400年以上前の『リア王』に描かれた三人娘の場面は、遠い昔の家族の物語ではなく、私たちにも覚えのある出来事として読めるのではないでしょうか。
(コミュニケーション学科教授:眞部多眞記)


