空想科学 

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2001/6/9(土)責任

責任・動機。個人や組織の行動の「理由」。ほんとうの理由や動機が存在するか。理由や動機は行動の「ほんとうの」理由や動機ではなく、社会的に構成されなければならないものだ。「責任を問えない」個人にたいする無罪という意味には、「社会」の側にはとりうる責任を全うさせる義務もあるし、権利もあるのではないだろうか。


2001/6/8(金)さわぎの陰で

経済学者・金子氏が連載されている「月光仮面」(東京新聞)で、現在の窮状をもたらしたほんとうの「責任追求」が小泉内閣の異常人気のために見えなくなってしまっていて、「ほんとうの」責任者(達)はこの騒ぎのかげで「のうのうとしている」のだ、という論評があった。むしろ実行される予定の「改革」は「のうのう」とした人たちに荷担することになるのかもしれない、と。パッシングはたしかに「責任追及」をしているように見えるが、実際にはなにも解決されていない。加えて、「改革」の名において免責どころか「おい銭」さえ与えることになる可能性が大きい。


2001/6/7(木)日常

午前中、知覚心理学。きょうは視知覚の障害として「弱視」の問題とその対応。それから、その他、視知覚が関係する知覚・認知障害(失認)の話。ゼミは知能測定の続き。卒論紹介はだいぶ前になるが、「うまくいかなかった」例として触空間の研究例を話した。うまくいかなかった理由はいろいろあるし、これらは大切なことがらである。卒論相談は今日は3名。Nさんはすこしづつだが前進。Hさんは「現場研修」の経験をふまえて修正。「空想」していないで「現実」をみることで非常にプラス。T君はもっと想像を。


2001/6/6(水)答え

午後おそく会議一つ。昼休みにも連絡会があったのだが、こちらは所用で欠席。

心理統計の教材を用意しながら考えたのだが、たしかに「検定」の部分を教えるのはなかなかホネだが、しかし、ともかく「答え」が存在しているという点では文系の科目のなかではむしろ「やさしい」科目というべきかもしれない。検定や推定以外のところはそれほど難しいということもないだろうと思う。必要性が理解されればそれで十分なのかもしれない。

科学論文にもねつ造問題(朝日新聞、夕刊)。なぜか考古学のねつ造問題のときのように科学全般あるいは某有力誌への不信感にまで発展しないのは、誤りやねつ造があったとしても、ひかえめな科学的方法によって誤りが見過ごされる可能性は小さい、というもしかすると過度の信頼感をもっているせいなのかもしれない。

おそまきながらSETI@homeプロジェクトに参加。大学の研究室のマックは空き時間に波形分析をしている。わたしにとっては神秘的なスクリーンセイバーにすぎないが、こんな巨大な分散処理を実現してしまうのはほんとうにすごいアイデアだと思う。


2001/6/5(火)日常

午前中、学部研究法の資料を印刷依頼。今日から「平均値の差の検定」で前半の山場にして最大のピークに。「文系」な統計学の(教え方)の難しさを毎年痛感している。しかし、データ事例そのものはいろいろ面白いものがあるので、繰り返しと「慣れ」でいくしかないなあ。1年のときに統計の入門科目があるので、実はそこで教わっているハズの内容で、繰り返す必要はないのではあるが。私が受けた心理統計のテストでは(相関係数を計算する)フォートラン・プログラムがでて、なにが計算されているかを判断するものだったので、初等統計としては「検定」まで行かなくてもよいのかもしれない、と少々弱気にもなっている。カリキュラム改正のときには3年次に履修するように変更すべきかなあ。

夕方の院の講義までの時間、OHP作りと図書館の選書委員の作業。わずかな予算なのだが、心理関係の書籍の希望リストをつくる。もっぱらWeb書店で検索してリストをつくり、プリントして図書館へ提出という作業ですむようになって便利になったものだ。

ある大学の4年生某氏より卒論の問い合わせがあった。まずは担当の先生に相談するのがよいと思うのだが。

夕刻、行動適応学。今日は知覚研究と医療の接点についての話題。最後に雑談的に「資格」の話題になった。医療の現場には法的資格の壁があるという事実。「心理」の場合には必ずしも特定の資格が必要というわけではないのだが、一定基準を明示するものは必要かもしれない。立場上このようなことを言わなければならないのは心苦しいことだし、無責任なことかもしれないが、各種の「心理相談」についてはこの一定基準を満たしたものは自由に「開業」すればよいのではないだろうか。社会に必要とされ、認められればそれが定着していくことになる。ともかく閉鎖的な「資格」に囲い込むのはやめるべきだろう。


2001/6/4(月)自主性

昼休みに教室連絡会。大学で専攻のことを「教室」という言い方をするのは最近はほとんどないのかもしれない。そのあと、学生有志諸君が教員の研究の話を聞ける機会をもてないものか、というおもいがけないすばらしい提案があった。講義やゼミのなかで研究について触れることもあるが、たしかに学生を対象にして個人的な研究の話をすることは少なかったと思う。ただ私としては不覚にも、これ以上の時間はとれない、との思いが浮かんでしまったのです。

ともかく良いアイデアなので、大学院生を中心にしてこのような会を進めるとよいのではないか、と思う。さらに言えば、3年生ではほとんどの講義を聞き終わっているわけだから、学生諸君の研究成果を発表する機会を考えるとよいのではないかと(実習の発表、卒論発表会の他に)。

午後から実験実習。きょうから次の実験グループの初日で、実験。終了後、3年生の前回グループから質問。結果はそれなりに出ているのだが、解釈が複雑になってしまった。これは今回実験のデザインに無駄があり、クリアーでない所為です。


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