歴史

株式会社吉川弘文館 「国史大辞典」P388−389 より抜粋

九代藩主徳川斉昭が天保十二年(一八四一)に開設。斉昭は同四年ころ建設を発表したが、年来の財政難に加え、藩政改革派と反対派との対立がからんで一向に進展しなかった。同六年、幕府から、向こう五年間、年間五千両ずつ下賜されることが内定、ようやく見通しが立つかにみえたが、同七年の凶作によって遅延、敷地が城内三の丸の、重臣十二人の屋敷に決定したのは同十年である。敷地は、およそ五万七千坪(十七万八千二百平方メートル)。翌十一年二月に至って建設工事に着手、四月青山拙斎(延于(のぶゆき))・会沢正志斎が初代の教授頭取に任ぜられた。この間斉昭は、同八年六月藤田東湖に命じて建学の趣旨を明示した文章を作成させ、斉昭の裁定を経たこの文章は同九年三月斉昭の名で「弘道館記」として公表された。それには神儒一致、忠孝一致、文武一致、学問事業一致、治教一致の教育方針が記されている。東湖の著わした『弘道館記述義』はその解説書である。諸施設の工事は同十二年七月におおむね終了、その配置にも建学精神に基づいて工夫がこらされてきた。すなわち、敷地東側中央に学校御殿・至善堂、その北側に文館、南側に武館・天文台、武館の西方に医学館(同十四年六月開館)を配し(学校区)、敷地のほぼ中央に孔子廟・鹿島神社・八卦堂・要石・学生警鐘を置き(社廟区)、敷地西側の区画を馬場と調練場とした(調練区)。翌八月一日に仮開館式を挙行。本開館式が行われたのは安政四年(一八五七)五月九日である。

「弘道館記」に記された水戸学の尊王攘夷思想の実践を目指すとともに、実用主義の立場から西洋医学なども積極的に取り入れようとした。文館には教授頭取・教授・助教・訓導のほか歌学教師・天文教師・数学教師など、医学館には医学教授・同助教など、武館には武術教師・同手副の教職がおり、藩士とその子弟のうち十五歳から四十歳までの者に規定の日割りに基づく修行が義務づけられた。その日割りは、布衣(注1)ならびに三百石以上の当主嫡子は十五日間、同次男以下および物頭(注2)ならびに百五十石以上の当主嫡子は十二日間、平士(注3)次男以下は八日間である。ただし年齢による免除措置があり、三十歳以上及び職事あるものは半減、四十歳以上は全免された。なお、江戸小石川の藩邸内には従来武道場しかなかったが、天保十四年正月から文武の教場を併設し、これを江戸弘道館と称し、教育は水戸弘道館の組織・制度に準拠して行われた。

水戸藩党争最後の対決になった明治元年(一八六八)十月の弘道館の戦で文館・武館・医学館などを焼失。同五年八月の学制発布に伴って閉館。焼失を免れた学校御殿は、同四月七日から水戸県庁として、また同五年一月から同十五年までは茨城県庁として使用された。昭和二十年(一九四五)の戦災で鹿島神社・孔子廟・八卦堂などを焼く。同二十七年国指定特別史跡となり、同三十八年大修理を行って孔子廟などを復元した。同三十九年学校御殿(正庁)・至善堂・正門および正門付塀が重要文化財に指定された。

(注1) 布衣(ほ-い)    江戸時代、武士の大紋に次ぐ4番目の礼服。また、それを着る御目見(おめみえ)以上の身分の者。
(注2) 物頭(もの-がしら) もののかしら。武家の家老、町方・村方の庄屋・名主など。
(注3) 平士(へい-し)   普通の身分のさむらい。また、官位のない人民。

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