A : 弘道館(こうどうかん)は江戸時代(えどじだい)の1841年[天保(てんぽう)12年]水戸藩(みとはん)の9代(だい)藩主(はんしゅ)徳川斉昭公(とくがわなりあきこう)が建(た)てた水戸藩(みとはん)の学校(がっこう)でした。
藩(はん)の学校(がっこう)なので藩校(はんこう)といいました。
当時(とうじ)の日本(にほん)にはたくさんの藩(はん)があり、ほとんどの藩(はん)が藩校(はんこう)を建(た)てましたが、弘道館(こうどうかん)はその中で最大(さいだい)の藩校(はんこう)でした。
A : 江戸時代(えどじだい)も終(お)わりの頃(ころ)になると外国(がいこく)[イギリス・アメリカ・フランス・ロシアなど]が開国(かいこく)[貿易(ぼうえき)]するよう強(つよ)く要求(ようきゅう)してきました。
中国(ちゅうごく)では外国(がいこく)と戦争(せんそう)が起(お)こりましたので、日本(にっぽん)は外国(がいこく)の船(ふね)をおいはらおうとしました。
徳川斉昭(とくがわなりあき)も外国(がいこく)の侵略(しんりゃく)から日本(にっぽん)の独立(どくりつ)を守(まも)り、発展(はってん)させることが大切(たいせつ)と考(かんが)え、そのためすぐれた人達(ひとたち)を育(そだ)てようと考(かんが)えて弘道館(こうどうかん)を建設(けんせつ)しました。
A : 規模(きぼ)は日本(にっぽん)で一番(いちばん)大(おお)きく約(やく)178.000m2(へいほうメートル)でした。
現在(げんざい)の水戸(みと)市立(しりつ)三の丸(さんのまる)小学校(しょうがっこう)、旧(きゅう)県庁舎(けんちょうしゃ)、県立(けんりつ)図書館(としょかん)まで広(ひろ)がるとても広(ひろ)い面積(めんせき)でした。
建設前(けんせつまえ)は家来(けらい)の屋敷(やしき)がありましたがほかへ移(うつ)して作(つく)られました。
A : 弘道館(こうどうかん)は学問(がくもん)と武芸(ぶげい)の両方(りょうほう)とも大切(たいせつ)と考(かんが)え、向(む)かって右側(みぎがわ)に学問(がくもん)を教(おし)える文館(ぶんかん)、左側(ひだりがわ)に武術(ぶじゅつ)を教(おし)える武館(ぶかん)を建(た)てました。
文館(ぶんかん)では儒教(じゅきょう)[中国(ちゅうごく)の政治(せいじ)・道徳(どうとく)の学問(がくもん)]、礼儀(れいぎ)、歴史(れきし)、天文(てんもん)[太陽(たいよう)や月(つき)、星(ほし)の学問(がくもん)]、数学(すうがく)、地図(ちず)、和歌(わか)、音楽(おんがく)など。
武館(ぶかん)では剣術(けんじゅつ)、やり、柔術(じゅうじゅつ)、兵学(へいがく)、鉄砲(てっぽう)や大砲(たいほう)の射撃(しゃげき)、馬術(ばじゅつ)、水泳(すいえい)などを教(おし)えました。
医学(いがく)を教(おし)える医学館(いがくかん)もあり、薬草(やくそう)から薬(くすり)をつくったり、牛(うし)を飼(か)い、牛乳(ぎゅうにゅう)からバターをつくるなどいろいろな研究(けんきゅう)もしていました。
その幅広(はばひろ)い内容(ないよう)は今(いま)の総合(そうごう)大学(だいがく)のようなものでした。
A : 水戸藩(みとはん)の藩士(はんし)の子供(こども)が学(まな)んでいました。
入学(にゅうがく)年齢(ねんれい)は15歳(さい)ですが、それまでは塾(じゅく)で本(ほん)の読み方(よみかた)などを習(なら)い、その後(ご)、塾(じゅく)の先生(せんせい)から弘道館(こうどうかん)へ入学(にゅうがく)の申し込み(もうしこみ)をしました。
武術(ぶじゅつ)は無試験(むしけん)ですが、学問(がくもん)は入学(にゅうがく)試験(しけん)がありました。入学(にゅうがく)してから試験(しけん)が月(つき)2回(かい)、そして年(ねん)1回(かい)秋(あき)に大(おお)きな試験(しけん)がありました。
なお卒業(そつぎょう)はありませんでした。徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)最後(さいご)の将軍(しょうぐん)となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公(こう)は5歳(さい)の時(とき)弘道館(こうどうかん)ができましたので11歳(さい)までここで学びました。
Q : 弘道館(こうどうかん)と偕楽園(かいらくえん)はどのような関係(かんけい)なの?
A : どちらも9代(だい)藩主(はんしゅ)徳川斉昭(とくがわなりあき)公(こう)によってつくられました。
弘道館(こうどうかん)は武術(ぶじゅつ)と学問(がくもん)を勉強(べんきょう)するところ、これに対(たい)して偕楽園(かいらくえん)はゆっくり休養(きゅうよう)するところとして、弘道館(こうどうかん)建設(けんせつ)の翌年(よくとし)1842年(ねん)[天保(てんぽう)13年(ねん)]につくられました。
Q : 弘道館(こうどうかん)の建物(たてもの)のほとんどはいつ焼(や)けてしまったの?
A : 江戸時代(えどじだい)から明治時代(めいじじだい)に変(か)わる頃(ころ)は、会津戦争(あいづせんそう)や函館戦争(はこだてせんそう)など日本国内(にっぽんこくない)でいろいろな戦争(せんそう)が起(お)こりました。
水戸(みと)でも藩(はん)の中(なか)で考(かんが)えが違(ちがう)う人達(ひとたち)の間(あいだ)で戦争(せんそう)が起(お)きました。その一つに弘道館(こうどうかん)の戦(たたか)い[1868年(ねん)]がありました。
この戦(たたか)いで弘道館(こうどうかん)は正門(せいもん)、正庁(せいちょう)、至善堂(しぜんどう)などを残(のこ)して焼(や)けてしまいました。
この戦争(せんそう)のときの弾(たま)のあとが正門(せいもん)や正庁(せいちょう)玄関(げんかん)に今(いま)も残(のこ)っています。
Q : 弘道館(こうどうかん)の建物(たてもの)で焼(や)けないで今(いま)も残(のこ)っているのはどんな建物(たてもの)なの?
A : 今(いま)も当時(とうじ)のまま残(のこ)っているのは正門(せいもん)、正庁(せいちょう)、至善堂(しぜんどう)です。